"I am reminded of my dead daughter."
(死んだ娘のことが思い出される。)
解説
「する」の項で指摘しましたように日本語社会では、あることが自分の意思を越えて行われた、という表現が好まれます。逆に言いますと、あることを個人の主体的意思にもとづいて行った行為として語る表現は一般に歓迎されないのです。事態は自然的に展開し成立したのであって、個人はその状況の中にあって自然にそういうことに相成った、という受身的な言い方が好まれるのです。それは助動詞「れる」「られる」にもしかと見えます。「れる」「られる」は日本語文法では、(1)自発、(2) 受け身、(3) 可能、(4) 尊敬の4つの用法があると説明されていますが、これらはいづれも自然展開的受け身の論理で支えられている点では通低しているのです。先ず自発について見ますと、たとえば「娘のことが思い出される」は思い出すまいとしても思い出されるという意味です。これは「思い出す」とは違って同じ自発でも主体的行為ではなく、「思い出さされる」という受け身なのです。例文のように受動態にするか、あるいは "Memories of my dead daughter comes to my mind." のように三人称主語を立てて自動詞構文にするかです。「故郷のことが思い出される」も "My home town comes up in my memory." でいいでしょう。「故郷のことが忘れられない」の英訳も同じでいいでしょう。"I never forget 〜" は主体的意思を表した表現で、これは意味合いが違ってきます。