「序章 挨拶ことばと文化」
本文から抜粋
(中略)しかし、人口が増えていくにつれて、序列を自動的に決めてくれるはずの年齢その他の差が、分からない場合が増えてきます。
その場合に、摩擦や衝突を確実に避ける手として、自己卑下をすることによって自分を下位に置き、相手を上位者として待遇する社会習慣が確立されたのです。
「与える」という動詞も、相手には「上げる」、自分には「下さる」「いただく」と使い分けます。
「上げる」は、ものを両手で頭の上に差し上げて相手に渡すの意です。
「いただく」は下げ渡されるものを頭(頂)の上で受け取るの意味なのです。
英語圏社会では、相手に敬意を表すのに自己卑下をする習慣はありません。
したがって、日本人が言う「お粗末さまでした」、「これはつまらないものですが」、「僭越ながら」、「不肖わたくしが」などの決まり文句がもつ、相手に対する敬意性は英米人には伝わりません。
「お粗末さまでした」の真意は《自分としてはあなたに喜ばれるものをと、真心を尽くしたのですけれども、あなたのような上流階層のお方の目からみれば、粗末でつまらないものかもしれませんが》の意なのです。
人に何かを要請するときの「恐れ入りますが(恐縮ですが)~をお願いします」という表現に代表されるように、相手に対して恐れ多くて身が縮むほど恐縮していることを示すのが最も丁寧な態度なのです。(中略)
ところが個人主義社会である英語圏では、相手を自分と対等な個人として認めて、その主体性を尊重するのが最も丁寧な態度であると考えられています。
したがって、例えば人に何かを要請するときは 'I was wondering if~,' 'I'd like~,' の構文に代表されるように、あくまでも相手の自由意志を尊重し選択の余地を残した形、相手が拒む場合に負担が少なくてすむように配慮した形が丁寧な表現なのであって、日本語のように恐縮の意を示すことではありません。
因みに、 'I was wondering if~,' と 'I'd like~,' の語法上の特質は、どちらも過去時制を用いることによって現在置かれている事態の切迫感を和らげ、疑問文ではなく平叙文を用いることによって、相手に返事をさせることを押しつけず、返事をするかしないかの選択の自由を残すのです。
動詞も「頼む、お願いする」という直接的な意味の語は使わず、「どうかなとふと思う」(wonder)、「~が好きだな」(like)という婉曲的な語を用います。
このように相手の自由意志を尊重するその配慮の度合いが英語圏社会における丁寧性の尺度なのです。(以下略)